山越邦彦のエコロジカルな住宅思想に関する多面的研究 その3

4.山越邦彦の今日的意義
高度経済成長期以来エネルギー依存を強める一方にあった建築は,1970年代の石油危機,80年代の地球環境問題の顕在化によって,認識の転換を迫られることになった。そうした中で始まる環境建築への模索の経験をふまえて,本草では建築設計学の観点から山越邦彦の今日的意義を検討する。

4−1.今日の視点からみた山越の実験住宅
環境時代の建築がとるべき方向性は,ひとつはパッシブデザイン,いまひとつは環境技術の高度化であろう。1970年代以降に,一部の建築家たちが西欧の情報などを元に興味を持ち展開することになるこうした考え方と,山越が1930年代に実験住宅で模索し導入しようとしていた思想と要素技術は酷似している。温水床暖房による輻射型の室温制御,集熱パイプによる太陽熱の採取,サンルームの活用などのパッシブデザイン,燃料用メタ
ンガスと肥料用中水の両方を採取可能な浄化槽にみられるバイオマスエネルギー・テクノロジーへの注目などがそれであり,その思想は当時言葉としては存在しなかったはずのエコロジー・デザインそのものであり,ここに至ってみれば,今日のサステイナブル・デザインに直接つながるものである。
山越の自邸遺構や残された資料に窺うことのできる彼の関心や態度には,独創的なアイデアとそれを実現するための技術的工夫があふれている。ドーモ・ディナミーカの「いちょうの木浄化槽」では,上澄水はパイプを経由しイチョウの幹を回り銀杏を実らせる。そしてそれはこの家の家族の胃袋に収まり再び浄化槽へと下るのであり,家族は浄化槽から発生したメタンにより台所でその銀杏を炒るのである。ドーモ・ムルタングラにおける集
熱面としての屋根の積極的利用。冬季豊かな花を咲かせるヴォーンガルテン屋根面のパイプは,温められた水を風呂へ運ぶ。サンルームの花は居間を彩る。
こうしたエンジニア的創意と日常の豊かさや楽しみとの緊結のアイデアは,その成果を超えて微笑ましい。ここには試みの予感の正しさに対する確信があり,その確信はその後,70年代に環境建築に向かった建築家たちが同じように予感し確信し獲得したものときわめて近い,あるいはまったく同じものであったように思う。山越の思考はきわめて早いのである。そして,その裏づけたるモダンな近代的市民像,いわばシチズンシップへの自信が覗くのである。
建物は乾式構造,工業化を予想する外皮をまとい,生活はまったくの椅子式,そこには自らデザインしたステイールパイプの椅子とベッドが置かれている。今日からすれば,そのたたずまいはスタイル優先と受け取られがちかもしれないが,実態は,山越自身が住宅を「エビキュールの園」注44)と表現するとおり,住まい手に健康と快適性をもたらせることこそが第一義であった。解体調査で外皮を取り除いてみると,往事の姿がそのまま
残っていた(写真 4−1,4−2)。石綿板とブリキ板のオープンジョイントの後ろ,窓周りなどのフラッシングは正当にも銅版によっていた。目に触れるところよりその裏に手間とコストがかけられている。戦前のこの時期,北欧,ドイツを中心に,生活を根拠に家政学という科学を生む,衛生,家族を主題とするモダニズムがあったが,ここにそれと同根の事例を見るのである。この国にも開かれた思想への共感と実践があったのであろう。

4−2.エコロジカル・デザインの戦前の成果と戦時下の断絶
山越の実験住宅ドーモ・ディナミーカの竣工に先立つこと5年。藤井厚二の『日本の住宅』(1928年)は,彼の実験住宅聴竹居竣工にあわせ,それ以前の実験住宅に触れながら気候と住宅について記した,わが国における環境と建築についての考察のごく初期の成果である。藤井厚二は,言わずもがなではあるが,今日のサステイナブル・デザインがその先達とする建築家である。そしていま仔細に聴竹居をみると,彼の成果はきわめて京都的
でもある。洗練された大工技術と一流の素材は京都の「だんな」の趣味のよさと,いわば「うるささ」をもの語ってもいる。そこで考えられた手法も,換気を旨とするきわめてまっとうなものである。「夏をもって旨とする」パッシブ住居,いわばこの国の伝統的底力の科学による論理付けと再デザインとでも言うべきものである。では藤井の「冬」は果たしてどのように科学により再考され解決されたのか。それは「電力への期待」に全面的に依
拠するもの,つまり極めてアクティブな技術信仰によっているらしいことが窺えるという注45)。私たちは発見された電気ストーブ,当時としてはきわめて珍しい各室のコンセントにその証拠を見る。
ドーモ・ディナミーカの調査過程で確認した2階床下の床暖房用温水パイプは太く,実用のほどはなんともいえないものであった。しかし先駆的テクノロジーとしてそれを実践した山越の意思を見た思いがした。
テクノロジーは,それが未熟でしかもそれにより希望に満ちて見えるとき,それへの過度の期待,予測を纏う。技術とはそうして発展するものであろう。聴竹居,ドーモ・ディナミーカに,これは共通のことでもある。これらふたつは西と東の気風までもあらわにする今日の建築環境技術の二様の先駆といえそうである。
同時期のこの二つの実験住宅が見せる対比は興味深い。日本の近代建築史において,四分の三世紀も以前にこうした試みが存在することを喜びたい。そして,伝統の上にあり,新しいテクノロジー電力に万来の期待をおく聴竹居の試みと同時に,太陽熱,バイオなど自然の資源に注目するドーモ・ディナミーカの存在があったことを思うとき,歴史の事実がみせるそのバランス,均衡に驚き,改めてその重要性に気づくのである。
このようにたどってくると,この国の1930年代の思想の豊かさが,その後の15年の愚かしい歴史によっていかに蹂躙されたかを思い知らされる。そしてその後遺症は,その後いかに長期に及んだかを。彼らの試みを,1970年代以降の建築における環境指向が結果として引き継ぐまでには,40年に及ぶ空白があったのである。歴史に仮には存在しないが,1930年以降が平和な15年であったらどのような今日があったのだろうか。断絶の理不尽を感じないわけにいかない。

4−3.エコロジカルな思想的統合体としての山越邦彦
山越の戦後の歩みは,教育者として,床暖房のエンジニアとして,環境問題の告発者としてとさまざまであり,その評価もさまざまである。横浜国立大学で山越から教えを受け,建築家として長くパリで活躍され2005年にレジオン・ド・ヌールを受けられた早間玲子氏の追想からは,リベラルな教育者像が浮かぶ。床暖房トライアルのよき協同者であった象設計集団の丸山欣也氏,富田玲子氏の証言からは,老いてなお試行錯誤を厭わない不屈
のエンジニア像が浮かぶ。中性洗剤の毒性に気づきこれを告発する山越には,この国のレイチェル・カーソンを思う。この告発により彼自身が受けた仕打ち,それによる彼および彼の家族の具体的被害も当時のさまざまな類似の事実から想像されよう。
自らの空間的美意識を完結した作品にまとめ上げる,いま仮にそんな建築家像を想定するならば,山越はそのような建築家であることに拘泥しなかった。いやむしろ否定していた。それは,従来的な建築概念に対して「構築」概念を対置し,みずから「構築家」であることを志した1930年から戦後の晩年に至るまで一貫していた。
さまざまな興味とそこから現れる多くの問題,それらに対して,時代のその時どきにひとりの「構築家」として解決へ向けて傾注する姿は,われわれを勇気づける。
そしてその信念が,心身の健康と快適に対する願いから発していることを知るとき,安堵を覚えるのである。
乾式構造を通して目指したプレフアプリケーション,床暖房による「小」エネルギー輻射暖房注46)とパッシブデザイン,UDCとエスペラントを用いたドキュメンテーションによる国際的ナレッジベース構築。山越が傾注した仕事は一見多様だが,これまでにみてきたとおり,山越邦彦というひとりの人間の中にエコロジカルな思想的統合体を形成していたのである。
近代化にともなう建築生産の発展は建築諸分野の産業化と学術研究の専門分化を促した。その過程には,建築をめぐる思索と営為が媛小化される側面があったことも否めない。しかし建築と環境とのエコロジカルな関係を回復して,人間が全的で複雑な生態系に寄り添おうとするとき,部分的な思索と営為は,新たな理念のもとに再統合される必要があるだろう。山越邦彦は,そのモデルとしての可能性を体現しているように思われる。

まとめ
本研究では次のことを明らかにした。
1)山越邦彦のエコロジカルな思想は、建築学の近代化=科学主義化を大きな背景としながら、精神的には1920年代の建築運動が備えていたアヴァンギャルデイズムを引き継ぐことで、オーソライズされた近代化よりもさらに先進的な方法を探求する中から生まれた。その際に核となったのは、乾式構造と生態学的デザインで、折しも家庭をもつ年代と重なったため、自邸はこうした技術や方法を試みるための実験住宅の様相を呈することになった。
2)山越は1930年代に二つの住宅において、実験的な設計を試みた。ドーモ・ディナミーカ(1933年)における主要テーマは、乾式構造と床暖房の採用であった。前者は、将来の生活変化への空間的対応を考慮しようというもの。後者は、ミスナールの合成温度概念を援用して、床暖房による比較的低温の輻射熱によって快適な室内環境を実現しようというものである。ドーモ・ムルタングラ(1936年)では、生物・環境間の継続的関係という生態系の概念に基づき、エネルギーや物質をひとつの住宅内部で完結的に循環させることを試みた。これは、外部にインパクトを与えないオートノマスハウスの考え方に近いものである。
3)山越は、実験住宅で実践した合目的性や客観的妥当性に基づく設計態度を、従来の建築という語に変えて「構築」と称し、批評や執筆活動を通してその理念を喧伝した。この理念は、1920年代後半のヨーロッパにおける前衛的傾向と共通していた。
ドーモ・ディナミーカにみられる空間の拡張可能性を残した設計方法は、1931年にドイツで発表された「成長する家」の理念に則ったものであった。そこでは接地性を重視した健康的住生活が標揺されており、ドーモ・ディナミーカでもこの理念に沿って増築が実施された。
山越のドキュメンテーション活動は,1920年代半ばから終生継続的に行われた。それは山越のエコロジカルな設計思想を支える科学技術情報を獲得し,さらにまた,それを国際的に共有しようというものであった。
4)山越のエコロジカルな設計思想は,1970年代から試みられる環境志向建築の先駆といえるもので,オルタナティブな近代建築像を示そうとした山越邦彦という存在は,建築と環境とのエコロジカルな関係を回復するために専門分化した諸領域と活動とを再統合しようとするときのモデルとして,今日的な意義をもつ。

〈謝辞〉
本研究にあたって次の各位,団体にご支援ご協力をいただいた。記して謝意を表します。仙波照雄,大河原保次,大塚茂仁,阪口清子,瀬能誠之,清水褒,宝木富士
夫,瀧浦秀雄,田所辰之助,田村糸己光,戸塚隆哉,富田玲子,濱寄良実,樋口裕康,古川健太郎,松成和夫,真鍋弘,丸山欣也,矢野和之,OM研究所,日本建築学会図書室。また,調査過程でお世話になりながら,ご意向により記名を控えた方々にも感謝申し上げます。

〈注〉
1)『建築文化』1974年10月号
2)小玉祐一郎・難波和彦・野沢正光「再考:近代日本の建築デザインと環境技術」
(『GA』1998年夏号),堀越哲美「日本の床暖房のパイオニアたち」(『soLAR CAT』
1998年秋号),矢代眞己・大川三雄・川嶋勝「雑誌『建築時潮』の概要と性格に
ついて」1998年度日本建築学会大会学術講演梗概集F,矢代眞己「山越邦彦:”
建築一ルート・マイナス1建築一構築”という冒険」(『建築文化』2000年1月
号),堀越哲美・堀越英嗣・小竹暢隆「戦前の日本における先端設備としての床
暖房・パネルヒーティングの住宅への導入」(『日本建築学会計画系論文集』第
534号,2000年8月)梅宮弘光「思想としての乾式構造」(『建築史論衆』思文聞
出版,2004年,所収)
3)堀越哲美・堀越英嗣「建築環境工学の研究潮流の進展と時代区分の考察」(『日
本建築学会東海支部研究報告集』第42号,2004年2月)
4)『建築時潮』第4号,1930年10月,PP.44…45
5)山越邦彦「私の受けた設備教育」『空気調和・衛生工学』第52巻第11号(1978年11月)
6)山越邦彦「DOMO DINAMIKA」『国際建築』第9巻第5号(1933年5月)p.172
7)山越邦彦「床暖房の生物工学的実験」『新建築』第10巻第5号(1934年5月)p.93
8)同前,p.96
9)(6)に同じ,p.173
10)山越邦彦「‘‘Domo Multangla’ ’多角生活の住宅」『住宅』第25巻第285号(1940年7月)p.5
11)同前
12)山越邦彦「実験住宅Domo Dinamikaの報告」『住宅』第25巻第279号(1940年7月)p.11
13)山越邦彦「<床>暖房と<いちょうの木>浄化槽について」(1970年代に発行されたと思われるリーフレット,山越旧蔵資料)
14)(10)に同じ,p.1
15)ジーアンリーファブル(英義雄訳)『蜘蛛の生活』洛陽堂,1919年
16)(10)に同じ,p.3
17)同前
18)同前,p.4
19)山越邦彦「Dinamikeの構築論へ」『新建築』第8巻第11号(1932年11月)p.360
20)(12)に同じ,p.12
21)山越邦彦「床暖房の体理学」『新建築』第12巻第4号(1936年4月)
22)Missenard,A:Temperature effective d’une,atomosphere.Temperature resultant d’un milieu,Chauffage et Industrie XII(137/138),PP.491-498/552-557,1931
23)(21)に同じ,PP.148-153
24)(7)に同じ
25)生田勉・磯崎新対談(磯崎『建築の一九三○年代系譜と脈絡』,鹿島出版会,1978年)
26)ぷるるる生「建築弁」『朝日新聞』(東京),1925年8月16日
27)構成社書房,1930年7月創刊,1931年6月第12号をもって終刊
28)詳細については,矢代・梅宮「東京中央電信局(1925)の意匠を巡る論争につい
て 山越邦彦研究・その2」『2006年度大会(関東)学術講演梗概集F−2』参照
29)『建築時潮』第1号(1930年7月)
30)同前,第7号(1931年1月)
31)’’G.Material zur elementaren Gestaltung’’,1923−26’’ABC:Beitraege zum BauenMaterial ’’,1924-28
32)創宇社建築会主催第1回新建築思潮講演会(1929年10月4日)で講演予定だっ
たが山越の講演は当日キャンセルされた
33)El Lissitzky, ‘K.und Pangeometrie’ , ‘’Europe Almanach’’,Gutav Kiepenheuer Verlag,1925 El Lissitzky, ‘NACI’, ‘‘Merz’ ’,8/9 April ,1924
34)山越はLissitzkyの著作を2冊所蔵しており,山越が購読していた“βeぷ′打J”に
も著述を発表しているのでLissitzkyの存在を知見していたことは間違いない。
Lissitzkyについては矢代「エル・リシツキー」『作家たちのモダニズム』学芸出版社2000年,PP97−104所収を参照されたい
35)(6)に同じ,P.174
36)『新建築』第9巻第10号,1933年10月,P.194
37)『国際建築』第9巻第7号,1933年7月
38)斉藤健「昭和戦前期における[モダニズム住宅]の理念と手法に関する研究」
平成12年度日本大学大学院修士論文
39)山越邦彦「建築学のドクメンテーションと学会の図書室」『建築雑誌』第79巻
第940号,1964年5月。山越邦彦講演「ドキュメンテーションの効用」(科学
技術情報センター「5周年記念情報活動講演会」録音テープ(山越旧蔵資料)

40)日本建築学会図書委員会議事録,1951−71年
41)(39)山越講演録音テープ
42)『朝日新聞』1961年10月18日朝刊,第9面
43)(39)山越「建築学のドクメンテーションと学会の図書室」,P.305
44)山越直筆原稿「ドモ・ディナミカ」(山越旧蔵資料)
45)高橋功『モダニストの夢 聴竹居に住む』日本工業新聞社,2004年
46)山越直撃原稿「小エネルギーで温かい床暖房」1978年頃(山越旧蔵資料)

補章 山越邦彦旧自邸と残存資料の調査
1.調査・研究に至る経緯
2004年7月,唯一の法定相続人であった山越邦彦息女・悠子氏の逝去にともない,自邸と旧蔵資料の滅失が危惧される事態となったため,筆者らは建物調査と資料保全を願い出た。幸いご親族に支援いただき,管財人および所轄家庭裁判所に許可されたので,建物の実測調査および部材採取,資料調査,保全作業を行うことができた。
2.調査開始時の資料残存状況
山越邦彦旧宅(東京都三鷹市下連雀)敷地内全部を調査対象とした。家屋は,山越逝去後の1981年1月の漏電に起因する火災のためその後の改変が著しいものの,矩躰は原型を留めていた。家財は火災後に遺族によって移動・整理され,存命中の配置とは異なるが,長期にわたる資料堆積が窺えた。火災により失われた資料の内容や規模については見当がつかないとはいえ、残存物には相当の資料的価値が認められると判断でき,それらを可能な限り温存することを調査方針とした。しかしながら,類焼と水濡れにより損傷の激しい資料も多く,腐食,炭化,固着したものは廃棄せざるを得なかった。

3.調査内容
家財調査(2005年6〜9月)の後,家屋の実測(同年9〜12月)を行った。並行して関係者へのインタビュー調査を行った。紙媒体資料については,①図書,②原稿・メモ・写真類,③書簡類,④図面類の四種に分類・整理し,データベース化を進めた。家屋については実測調査を行い,現況を記録した上で,大工職を雇い上げて天井・壁体・床下を順次部分解体しながら基礎や痕跡を確認し,竣工当初の状態を復元的に明らかにした。この過程で,写真撮影と当初の家具,軸組,部材のサンプル採取を行った。

4.調査成果と保全状況
①図書,②原稿・メモ・写真類については現物の分類・整理とデータベース化が完了した。③書簡類は彩しい数のため,消印による時系列整序までにとどまった。④図面類については,戦前のものについては量が少なく物件も特定できるため②原稿・メモ・写真類とともに整理,データベース化した。家屋については,基本図面のCADデータを作成した。また,火災後に補修された外被を可能な範囲で取り除き写真撮影を行った(写真4−2
参照)。以上の資料は,所轄家裁の承認を得て,現在のところ筆者ら山越邦彦研究会が所蔵・保管している。
なお,山越家財産は国庫収容のため,建物の取り壊しがあらかじめ決定していた。火災による損傷とその後の改変は著しく,残念ながら文化財的価値を見出すことは
できなかった。2006年5月,同建物は管財人管理下において取り壊された。ドーモ・ディナミーカの戦後の象徴でもあったイチョウと,前面道路名称の所以であったスズカケの大木は伐採され,敷地は売却された。