山越邦彦のエコロジカルな住宅思想に関する多面的研究 その1

本研究は,建築家・山越邦彦(1900−80年、写真1−1,ト2,表1−1)のエコロジカルな住宅思想について,近代建築史学,建築環境工学,図書情報学,建築設計学の各面から検討し,その理念と今日的意義を明らかにしようとするものである。
山越は近代建築史においては先鋭的なモダニズムの論客として,建築環境工学においては床暖房の推進者として,図書情報学においてはUDC(国際十進分類)普及の功労者として,建築設計学においては乾式構造(トロツケンバウ)の先駆者として一定程度知られてはいた。しかしそれらが,ひとりの人間の思想と実践の中に,どのように統合されているのかについては解明されていなかった。そうした中,1974年に発表された昭和初期住宅研究体「自然との循環系をもつ科学的実験住宅」注1)が,生前の山越に直接取材し,そのエコロジカルな思想に焦点化した意義は大きい。しかし,全体像の解明は残されたままであったと言わざるを得ない。
筆者らは1990年代より山越に関する研究注2)を個別に発表してきたが,このたび山越が残した資料と自邸を詳細に調査する機会を得たので,これまでの知見をふまえ一次資料に基づいて多面的研究と全体的検討を試みる。
1.山越邦彦の活動背景としての1930年代
山越がエコロジカルな思考を2軒の実験住宅に結実させた1930年代とはどのような時代だったのか。本章ではこの点を,山越の活動歴と当時の時代背景とを重ね合わせて確認する。
1−1.建築界における新しい科学的潮流
1922年に佐野利器は「尚科学は国是であらねばならない」と科学立国論を唱え,耐震設計の必要性とともに衛生学的配慮の重要性を説いた。昭和に入る頃,国家近代化の命題のもと,建築にも科学主義の風潮が定着していく。それまでも,建築の衛生的側面は設計の名のもとに建築家が担ってはいたが,学問的成立には至っておらず,それはもっぱら医学/衛生学の領域にあった。
1923年,京都帝大衛生学教室から『国民衛生』が創刊される。そこには建築衛生,特に熱・空気環境に関わる多くの論文が掲載された。従来の建築学にはなかった環境の科学的分析と実現を目指したものであった。
同誌の第1巻(1923−24年)から第12巻(1934−35年)に掲載された熱・空気環境関係論文数は,第4巻(1926−27年)までは17→15→24→14と二桁で推移するが,第5巻(1927−28年)では4編に減少,以降一桁台前半に低迷する。これは昭和に入る頃の細菌学への傾倒によると思われる。一方,同種の論文を『建築雑誌』『衛生工業協会誌』にみると,1925年から34年までの10年間で論文6編,抄録14編。そのほとんどが1930年以降に集中している。すなわち,この頃から衛生学が担っていた研究や実務が,建築学者や建築家に引き継がれていったと考えられる注3)。
その先駆者が藤井厚二である。1926年,藤井は『国民衛生』に「我国住宅建築の改善に関する研究」を発表,その成果を自邸聴竹居(1928年)で具体化した。同時にその内容は『日本の住宅』として出版され,若いモダニスト建築家たちにも影響を与えることになった。
1−2.近代建築運動終息後のモダニストの状況
国家の近代化という至上命題のもとで推進されてきた建築の近代化をオーソライズされた近代建築とするならば,1920年代の建築運動が提示しようとしたのは,そのオルタナティブだった。争点は,前半では様式や造形意匠,後半では建築の社会性であった。20年代を通じて争点は変化したが方法は変わらず,主題を仮定して理想像を描くというものだった。現実性のなさはいかんともしがたいが,ほかに方法もなかった。
1930年後半に準備された新興建築家連盟は,こうした状況の打開を目指したものだった。その「一九三○年宣言」の冒頭にいう。「我々は,科学的な社会意識のもとに団結して,建築を理論的に技術的に獲得する」注4)。建築の現実性を技術に求めて,そこに立ち戻ろうとする方向はよかった。しかし,すでに「団結」が許される世の中ではなくなっていたのである。読売新聞の悪宣伝が契機となって連盟が解散した後,建築の理論的・技術的獲得という課題はどうなったのか。連盟に集った人びとそれぞれの1930年代が問われることになろう。
このように考えるとき,新興建築家連盟の中枢にいた幾人かが,1930年代初頭に相次いで自邸を建てたことが注目される。土浦亀城,市浦健,そして山越邦彦。すでにジャーナル上で活躍していたとはいえ未だ30歳前後,独立間もないかサラリーマン技術者という立場であった。家が持てるほどに恵まれていたともいえようが,逆に,建築の理論的・技術的獲得のための試みは自前で行うほかなかったということでもある。
このときに彼らがよりどころにした技術が,乾式構造(トロツケンバウ)と環境工学であった。未熟だが可能性を秘めたこれらの技術によって,オーソライズされた近代建築に対抗しようとしたのである。

表1−1山越邦彦略年譜
1900(明治33)年 山越八郎、ひさの三男として東京で生まれる(6月22日)
1913(大正2)年 東京府立第一中学校入学(4月)同期に小池新二、柘植芳男
1918(大正7)年 同校卒業(3月)
1919(大正8)年 第一高等学校入学(9月)
同期に村山知義、戸坂潤(卒業はともに大正10年)
1922(大正11)年 同校理科甲類卒業(8月)同期に柘植芳男(大正8年入学)
東京帝国大学工学部建築科入学(9月)
1925(大正14)年 同大卒業(3月)、卒業設計「Kino」同期卒に渡辺要、武藤清ら
戸田組入社(4月 設計部)この頃より小池新二と海外文献蒐集開始
画家・玉村方久斗邸設計・竣工「ゲ・ギムlギガム・ブルルルーギムゲ
ム編輯所」名で『新建築』(第6巻第11号)掲載
朝日新聞紙上,筆名「プルルル生」で分離派建築会批判(8〜9月)
1年志願兵として鉄道第一連隊入隊(12月)
1926〈大正15)年『ゲエーギムギガム・ブルルル・ギムゲム』(創刊は1924年6月)
3年1号に「構築 構築Strukturismo」を執筆
1927(昭和2)年 三科形成芸術展覧会(6月3〜12日)に「硝子構成物体」出品
1929(昭和4)年 「構築−ルート、マイナス1建築一建築」発表(『建築世界』第23巻第
7号)、同年大学卒業設計展の評論
1930(昭和5)年 『建築時潮』(構成社書房)を編集一創刊(6月)
新興建築家連盟発足(7月、準備委員〜代表幹事)
1931(昭和6)年 耀堂ビル(横浜)竣工
1932(昭和7)年
1933(昭和8)年
第一書房設計・竣工
著作『耐構学』(建築学会パンフレット第5輯第6号)発行
小島基と結婚(4月25日)自邸‘‘domodinamika’’(三鷹)の
設計で床暖房、乾式構造を導入
この頃、山脇高等女学校の設計担当 大規模な床暖房を導入
1934(昭和9)年 共著書『高等建築学第18巻倉庫サイロ冷蔵庫一格納庫自動車庫』
(常磐書房)発刊(「冷蔵庫・格納庫」執筆担当)
1936(昭和11)年 戸田組(設計部係長)依願退社(7月)自邸で設計事務所自営
経済学者・林要邸‘‘domo multangla’’(久我山)竣工
日本工作文化連盟設立(12月)、会員
1937(昭和12)年 臨時召集により鉄道第一連隊応召(8月30日)上海陸軍病院入院
1938(昭和13)年 腸チフスのため還送(3月15日)+入院 退院(5月)原隊復帰
1940(昭和15)年 召集解除(6月)設計事務所自営
1941(昭和16)年「友人の紹介」で柳瀬正夢の自邸設計を依頼される
柳瀬邸竣工まで三鷹の留守宅に柳瀬一家が仮寓(7月)
興亜院より派遣され北京大学工学院建築系教授(8月)
1942(昭和17)年 柳瀬正夢邸着工(3月 翌年3月竣工)休暇で一時帰国(8月)
1944(昭和19)年 長女・悠子誕生(8月7日)
1945(昭和20)年 終戦により北京大学教授自然解任(10月)
1946(昭和21)年 中華氏国立世界科学社留用、研究員(12月)
1948(昭和23)年 同上 留用解除(11月)引き揚げ(11月29日佐世保港着)
1949(昭和24)年 法政工業専門学校建築科教授 法政大学専任教授
1952(昭和27)年 日本学術会議国際十進法分類(U.D.C)法委員会委員
日本建築学会図書委員 U.D.C分類『建築雑誌』掲載開始
1953(昭和28)年 法政大学退職 横浜国立大学工学部教授(8月1日付)
1954(昭和29)年 日本工業標準調査会(通産省)臨時委員
1956(昭和31)年ドキュメンテーション研究連絡委員会U.D.C小委員会建築学会分科会委員
1958(昭和33)年 日本建築学会建築設計計画基準委員会、建築辞典編集準備委員会委員
横浜国立大学附属図書館工学部分館長(〜1962年3月、2期4年)
1961(昭和36)年 朝日新聞に「処置のない汚水」発表(10月18日朝刊9面)、中性洗
剤害毒問題化のきっかけとなる
1962(昭和37)年 横浜国立大学工業教員養成所講師餅任
衆議院科学技術振興対策特別委員会に参考人召致(中性洗剤の
害毒に関して)
1963(昭和38)年 横浜国立大学工業教員養成所教授に配置換え 工学部教授併任
1965(昭和40)年『台所の恐怖−おそろしい洗剤の害毒』(柳沢文正・文徳と共著)
1967(昭和42)年 横浜国立大学辞職(3月31日付)
1968(昭和43)年 向中野学園(盛岡市)校長住宅・農場管理室新築に際して寒冷地向
け床暖房設備と管理浄化槽装置を設計
1970(昭和45)年 小山自動車整備専門学校(現東京工科専門学校)校長
1971(昭和46)年 日本科学技術センター丹羽賞受賞
1974(昭和49)年ドーモ・セラカント(設計=象設計集団)の床暖房設計施工を担当
1980(昭和55)年 病気のため逝去(4月7日)

1−3.山越の環境工学への関心
環境工学や建築設備に対する山越の関心が,以前から高かったというわけでもない。そもそも当時の東京帝大建築科には自前の設備の授業はなく,機械科の授業を受けていたという。山越が中村達太郎の「暖房・給湯・給水の本」を知り座右の書とするのは卒業後のことであった注5)。一方,戸田組在職時に小池新二と収集を始めた海外資料中には,建築設備関連情報が多数あったという。自邸の計画が始まるのは,そのようなときである。紆余曲折の末見つけた敷地は「何を好んで冬期北風の多い,夏期は又大陸的気候に近い暑さの土地を選んだか疑問視される」ような「東京駅から45分もかかる遠方」注6),東京市三鷹村下連雀だった。上水・下水ともになく,ガスのみが敷設されていたという。
こうした環境条件下でいかに快適な住まいを実現するか。この課題に直面して,住まいをめぐる環境工学への関心もおのずと高まっていったと思われる。

2.住宅設計における山越邦彦のエコロジカルな思考
山越が設計してエスペラントで命名した二つの住宅−
ドーモ・ディナミーカ(1933年,写真2−1,図2−1,図2−3),ドーモ・ムルタングラ(1936年,写真2−2,図2−2)−は,継続する実験住宅だった。本章ではこの実験を通して山越が検証しようとしたエコロジカルな思考の具体的内容を明らかにする。

2−1.基本的態度としてのエコロジー
山越は1934年に次のように述べている。「生物工学は人間を物の尺度として技術的関心の中心に移し技術と有機体との調和を創造することを課題とする。而して人間を技術の危険より解放し,技術にその生物工学的変化に於て生活向上の可能性を与へやうとする。技術によつて生命を損耗することではなく,技術形態を生活体に奉仕するやう生活態の多様性に適応せしむることによつて生命を獲得する。之が生物工学の意味及び課題である」注7)。
文脈から判断すると,山越が用いた「生物工学」の意味は,今日の生態学=エコロジー,とりわけ生物と生息空間との間に成り立つ相互作用に着目する生態系の意味である。逆に今日,生物工学といえば主にバイオメカニクスを指すから,注意が必要だろう。
山越は,住宅設計を「生物工学」的に行うには「気象学的の諸要素の大気の温度湿度風速及び柘射熱の正確な測定とともに之等の生物工学的意義が明らかにされて,その綜合的作用より考察」する必要があるので「Physiologische KlimatologieとKlimaphysiologeの協力の必要を感ずる」注8)(生理学的気候学,気候生理学とでも訳せるか。気象/気候の区別は厳密ではないようだ)と述べる。すなわち,住宅における住人の生命現象を明らかにするためには,人間一住宅の相関を問題にするだけでなく,さらに外側の気象=大気圏までを考慮する必要を説いている。以上から,1930年代初期において山越は,住宅設計を地球規模の生態系に位置づけていたことがわかる。

2−2.パッシブデザインの実践
山越が実験住宅を通して試みたエコロジカルな工夫を表2−1にまとめた。これに基づいて要点を述べる。
設計においては,太陽光と生活との関わりをどのように設定するかが主要課題だった。その解決として,ふたつの実験住宅ではともに主要諸室に加え便所・浴室を南面一列に配し,壁面をガラス大開口としている。この開口は通風・換気・防湿防腐への配慮でもあり,ドーモ・ディナミーカでは「風が足をかすめて吹く程度」注9)まで窓台を下げるべきとしている。
こうした工夫は,ドーモ・ムルタングラでさらに推し進められ,屋根をガラスにした「ヴォーン・ガルテン」(屋内の庭)が設けられた。屋根は太陽光の吸収面と位置づけられ,配管に水を通す太陽熱温水器が製作され風呂に用いられた。このとき,太陽熱でアンモニアを蒸発させて冷房に利用する試みが海外にあることを紹介し,太陽熱利用の可能性を強調している注10)。
ドーモ・ディナミーカは乾式構造で,この構法に適した高い断熱性能を有する材料として,当時の新建材である石綿板(外壁材)とテックス(内装材)が用いられた。しかし,ガラス開口部の日射コントロールはカーテンとし,雨戸は開閉に要する労力と時間が不合理という理由で廃された。すなわち,採光の積極的工夫に比して保温に対する配慮は少なかった。生活実験によってこの欠点を意識した山越は,ドーモ・ムルタングラでは保温・蓄熱を積極的に考えるようになった注11)。かつて不合理な因習として廃された雨戸と畳は,ここではテックス製雨戸の設置や,畳の断熱・蓄熱性能再評価へと変化している。また,晴天の昼間に寝具に蓄熱する工夫として2階寝室南側にはテラスが設けられた。
ドーモ・ムルタングラでは,住人が菰菜・果実の栽培,鶏・豚の飼育を行う自給自足的生活の実践が行われた。こうした生活への対応として,雨水槽,厨芥をメタンガス化して燃料とする装置が設置された。また,床レベルを下げて室内外の連続性・一体性が高められた。
ドーモ・ムルタングラでのこうした経験によって,山越は自邸ドーモ・ディナミーカでも同様の試みを考えるようになった注12)。庭の目的は鑑賞から生産に変化し,屋外での生産活動の便宜のためピロティに壁を入れ「実験室」とした。また,浄化槽からの排水を「湊み込み槽」に導きその脇にイチョウの雌木を植える「いちょうの木浄化槽」注13)を考案した。これは,浄化槽から出た排水と未浄化物をイチョウに吸収させ,惨み込み槽内壁の目詰まりを防ぐとともにイチョウの養分とし,成長したイチョウは防風・防火に役立て,さらに銀杏を採取,食用の結果の排泄物は浄化槽を介してイチョウに戻す,という循環システムである。筆者らが実地調査した2005年時点で,このイチョウは高さ10mを超える大木であった。

2−3.循環と成長への志向
山越は,ドーモ・ディナミーカでの生活経験から,生活形態として,都市分散か都市集中かの是非を検討した。「農村に住み乍ら都会の機械的科学的な生活を行へる方                                                                      方策を思ひ廻らせ」さらに「郊外,若しくは農村で,都会で得られない幸福を味わいつつ然も便利で文化的生活が出来ることを示してみたい」注14)と考えた。
ここで山越に示唆を与えたのがフアーブルの『蜘蛛の生活』注15)であった。同書では,フアーブルがある種のクモが幼虫期に外界から一切栄養摂取をしないにもかかわらず成長するのを観察して,太陽光から栄養を得ていると考察したことが紹介されている。山越はここに生態系における人間存在の本質をみて次にように述べる。「太陽エネルギーは又地球の森羅万象を生ぜしめる始源である。(中略)太陽エネルギーの転移とその過程は,合作者たる地球上の土や水や空気や有機物等の種類の大きさに比例して幾通りもあつて,宇宙の循環する諸要素の基である。宇宙の万象にして渦を巻き又環を描いて循環しないものは無いと云つてもよい程である。この自然の理を人間の世界に応用する事は出来ないだらうか。循環の鎖は少しでも多い程エネルギーは有効に利用される訳である」注16)。さらに窒素循環図(図2−4)も示している。「循環の鎖」は多いほどよい。これがドーモ・ムルタングラの主題でありムルタングラ=多角的という命名の由来だった。山越はさらに述べる。「〈外界を遮断して外部の脅威的現象を閉め出し,保護された環境を形成する〉といふ住宅の消極的な機能を充分に克服しながら,一方,さらに消極的方向に目を向けて放置すれば,威嚇である現象を手馴づけて,人生に役立てるやうな住宅建築を実際にいろいろ創ってみたいと考へたのである」注17)。その結果ドーモ・ムルタングラでは,ドーモ・ディナミーカで試みられていたパッシブデザインに加えて,住宅内に循環を形成するための建築的工夫が多く採り入れられることになった。(表2−1参照)。この思想は,単なるエコハウスを超えて,すべてのエネルギーや物質をひとつの住宅内部で完結させて外部にインパクトを与えないオートノーマスハウスにきわめて近い。
山越にとってドーモ・ムルタングラでの試みは1戸の住宅にとどまるものではなかった。「同じ様な生活様式と生活条件の数単位の家族が協力し或は社会的に実施出来れば遙に効果を挙げ得ると思ふ」注18)。と述べている。また,ドーモ・ディナミーカの竣工前には「Dinamikeの構築論」と題する文章で「Dinamike」の本質は「量の質への移行」であるとして「家+家+家+家+‥‥‥もう単なる家の集合ではない」注19)と述べていた。ここに顕著なように,山越のエコロジカルな思想の基盤には,唯物論的弁証法の哲学がある。

2−4.山越における床暖房のエコロジカルな性格
山越は,ドーモ・ディナミーカでパネルヒーティングを採用したことについて「権威柳町政之助氏が自邸に我が国最初の実験的採用をされたのが有力な動因」注20)と述べている。ドーモ・ディナミーカの床暖房は,この柳町の設計になる。当時の業界・学界では,低温輻射による暖房を「パネルヒーチング」と呼んでいた。しかし日本の場合,低温輻射を射出する建築部位はほとんどは床か天井であった。山越はそれを「床暖房」と呼ぶことを柳町に提唱し,以後この呼び名が定着する。山越は建築家として最初に床暖房を採用し,その名付け親でもある。
山越が1934年に書いた「床暖房の生物工学的実験」は竣工後−冬を経過したドーモ・ディナミーカの床暖房に関する実験報告である。実験において,山越は床暖房の快適性と有効性を理論づけるために,体理学(生理学)的解析を行おうとしている。
暖房の熱的設計条件は人体と環境との間の熱平衡に基づくものである。そのため,特に輻射(熱放射)が果たす役割の重要性を,人体からの放射による放熱・受熱理論に基づいて説明している注21)。そこでは,フランスのミスナールの論文を翻訳し,気温と壁温(放射温度)と人間の活動レベル(代謝)との関係を明らかにし,低気温でも輻射面があることで快適さを保てることを説明した。さらに,気温と壁温の関係の概念図(図215)を付
していわゆる合成温度25℃理解と合成温度測定の必要性を示した上で,それを可能とする合成温度計と日本で開発されたばかりのラフレコメーターを紹介している。
山越の卓見は,ミスナールの研究を参照している点に現れている。暖冷房の最適条件は,1923年にヤグローらが開発した有効温度Effective Temperature(ET)によって設定されているものが当時の日本での主流であった。有効温度は気温・湿度・風速の影響を取り扱っているが,輻射の影響は組み入れられていない。ミスナールはそこに着目し,ヤグローの有効温度への熱放射の不足を指摘,熱収支に基づき輻射の影響を組み入れた合成温度Temperature Resultaneを開発した注22)。この提唱はウインズローやギャギらの作用温度よりも早いが,日本では参照されることが少ない指標である。
ドーモ・ディナミーカ以後,山越は柳町とともに水澤邸(土岐・水澤),金杉邸(戸田組設計部),山脇高等女学校(戸田組設計部,担当山越)へと床暖房の実施を重ねてゆく。山越にとって床暖房は「室内の空気を暖めることではなく,空気温を適度に保ち,対流による体温放射を輻射熱によって体理学的に適当に調節し,人間に直接自然の快感を与える」注23)技術だった。それは「人間を物の尺度として技術的関心の中心に移し技術と有機体
との調和を創造」注24)するという山越のエコロジカルな設計思想に合致するものであった。