山越邦彦についての覚書

1974年の建築文化10月号に矢野和之,松成節夫氏等武蔵工業大学広瀬鎌二研究室有志による「昭和初期住宅研究体」の山越邦彦についての記事があった(自然との循環系をもつ科学的実験住宅)。私はその記事を印象深く記憶する。今回、山越について興味を同じように持つ人々によって研究会が起こされた。この間、資料を収集し,関係者などに聞き取りを行うなど幾許の作業を行ったが、その中でもちろん当時この記事の作成にかかわられた方々の話をお聞きする機会を得た。ほぼ同世代に建築を学び、その中で山越の事績に出会い、興味を持ち調査を重ねられた両氏を中心とした「昭和初期住宅研究体」の先駆的な成果に改めて共感を持った。
私はこの記事に出あうことが無ければ山越に会うことは無かったかもしれないし、もしもあったとしてもそれはずっと後のことになったに違いないとおもう。
記事は1930年代の思いがけぬ姿を示していた。山越30歳の自邸、ドーモディナミカ、そして経済学者、林要の家であるドーモムルタングラ(1936)に持ち込まれた思想と要素技術はわれわれが1970年代以降に主に西欧の情報などを元に知り興味を持ち展開することになる考え方、技術ときわめて酷似しそれに先行していたのである。
給湯パイプによる床、天井パネル暖房という輻射型の室温制御、集熱パイプによる太陽熱の採取、サンルームの利用というパッシブデザイン、浄化槽からのメタンガス採取による台所燃料利用と上澄みの肥料化、というバイオマスエネルギー、テクノロジーへの注目などがその主な要素技術であり、これらの指し示す思想は当時言葉としては存在しなかったはずの「エコロジーデザイン」そのものであり、ここに至ってみれば今日の「サステイナブルデザイン」に直接繋がるものであると考えられると思われたのである。
そして彼の興味と実践の持つ独創に特に注目することはそれらが技術的アイデアとテクノロジーの工夫にあふれている事にもあった。浄化槽の上澄水はパイプを経由し銀杏の幹を回り「ぎんなん」の実となる。そしてそれはこの家の家族の胃袋に収まり再び浄化槽へと下るのであり、家族は浄化槽から発生したメタンにより台所でその「ぎんなん」を炒るのである。冬季豊かな花を咲かせるサンルーム上部のパイプは温められた水を床暖房のパイプに運ぶ。サンルームの花は温水暖房された居間を彩る。こうしたきわめてエンジニア的創意と日常の豊かさ、楽しみの緊結のアイデアはその成果をこえて私を微笑ませる。ここには試みの予感の正しさに対する確信があり、その確信はその後、われわれが同じように予感し確信し獲得した物ときわめて近いもの、またはまったく同じものであったといえるように思う。彼の思考はきわめて早いのである。そしてその裏づけたるモダンな近代的市民像いわばシチズンシップへの自信が覗くのである。
建物はトロッケンバウ、乾式の工業化を予想する外皮をまとい、生活はまったくのいす式、そこには自らデザインしたスチールパイプのいす、ベッドがおかれている。戦前のこの時期、北欧、ドイツを中心に存在した生活を根拠に家政学という科学を生む衛生、家族を主題とするモダニズムがあったと聞くがここにそれと同根の事例を見るのである。この国にも開かれた思想への共感とその実践があったのであろう。

私は藤井厚二の著書「日本の住宅」を持っている。1930年に先立つこと2年1928年の出版であり、彼の実験住宅、「聴竹居」竣工にあわせ、彼がそれ以前の実験住宅に触れながら気候と住宅について記した、わが国で環境と建築についての考察のごく最初の成果の一つである。藤井厚二は言わずもがなではあるが今日のサステイナブルデザインがその先達とする建築家である。そしていま仔細に聴竹居にみる彼の成果はきわめて京都的でもある。洗練された大工技術と一流の素材は京都の「だんな」の趣味のよさといわば「うるささ」をもの語ってもいる。そこで考えられた手法も換気を旨とするきわめてまっとうなものである。「夏をもって旨とする」パッシブ住居、いわばこの国の伝統的底力の科学による論理付けと再デザインとでも言うべきものである。では藤井の「冬」ははたしてどのように科学により再考され解決されたのか、聴竹居に住みながら調査を続ける高橋氏によればそれは「電力への期待」に全面的に依拠するもの、つまり極めてアクティブな技術信仰によっているらしいことがうかがえるという。私たちは発見された電気ストーブ,当時としてはきわめて珍しい各室のコンセントにその証拠を見る。
テクノロジーはそれが未熟でしかもそれにより希望に満ちて見えるとき、それへの過度の期待、予測を纏う。技術とはそうして発展するものであろう。聴竹居、ドーモディナミカにこれは共通のことでもある。これらふたつは西と東の気風までもあらわにする今日の建築環境技術の二様の先駆でもあるのかも知れぬと思う。
きわめて同時期のこの二つの実験住宅が見せる対比については今後も興味を持ちながら研究者によるさまざまな成果を期待したいと思うが、四分の三世紀も以前に私たちの建築史こうした試みが存在することを喜びたい。そして伝統の上にあり新しいテクノロジー電力に万来の期待をおく聴竹居の試みだけでなく、太陽熱、バイオなど自然の資源に注目する「ドーモディナミカ」の存在にあらためて歴史のバランス、均衡に驚きその重要さを思うのである。

山越邦彦研究会は山越の令嬢の逝去(2004)によりその自邸、ドーモディナミカが撤去され土地を国有とされるという事態を受けた形で発足した。調査を怠れば山越自邸に残る彼に関するすべての資料は消失すると言う事態であった。この経緯と今日までの成果は別に明らかにされるだろう。
主のいない住まい「ドーモディナミカ」はわれわれにより調査された。蔵書がリスト化され、写真撮影が行われ、暖房パイプの一部家具など実物の採取が行われるなど多くの資料が発掘された。私自身はその活動に多くの時間を割くことはできず、時折参加することしかかなわなかったが、大きな栃の木が道に張り出す奥のドーモディナミカは乾式構造の外壁をリシンに覆われ保全されていたためか、外皮を取り外すと当時の姿がそのままのように現れたことに驚き、石綿スレートとブリキ板のオープンジョイントの外皮の後ろ、窓周りなどのフラッシングが正当にも銅版によっていることにも驚いた。目に触れるところよりその裏に手間とコストがかけられている。私はこの現場に最後に立ち会うことができたことを心から喜び、しかしこれが実物として存在することが許されない事実を悲しんだ。
肝心の二階床下の暖房用パイプは太く実用のほどはなんともいえないものであった、しかし先駆的テクノロジー、それを実践した山越の意思を見た思いがした。
そして既にない「ドーモムルタングラ」に会いたい衝動に突然駆られもしたのである。

この国の1930年代の思想の豊かさがその後の15年の愚かしい歴史によっていかに蹂躙されたのかを思う。そしてその後遺症はその後いかに長期に及んだかを。彼らの試みをわれわれが結果として引き継ぐまで40年に及ぶ空白があったのである。歴史に仮には存在しないが1930年以降が平和な15年であったらどのような今日があったのだろうか、断絶の理不尽を思う。

山越の戦後の歩みは教育者として、床暖房のエンジニアとして、環境問題の告発者としてと、さまざまでありその評価もさまざまである。教育者としては草間玲子氏の追想(横浜国立大学工学部建築学教室同窓会水煙会会報35号平成18年)がそのすべてを語っている。床暖房エンジニアとしての彼については0000,0000の証言がある。象設計集団は山越の床暖房トライアルのよき協同者であった。浄化槽の活動がしばしば停止するところから合成洗剤の毒性に気付きこれを告発する彼からはこの国のレイチェルカーソンを思う。当時の合成洗剤の質は今日からは思いもよらぬものであったとしても不思議はないし、この告発により彼自身が受けた仕打ち、それによるか彼および家族の具体的被害も当時のさまざまな類似の事実から想像されよう。建築家であることに拘泥せず、さまざまな興味とそこから表れるたくさんの問題、それ自身に時代ごとにさまざまな解決の興味を傾注するすがたをこれら事実から私は目の前に見る。とともに再び日本人の1930年以降の時間がいかに無残なものであったかを。

ドーモディナミカ調査のなかで、私はメンバーから蔵書の中にあった一冊のアルバムを渡された。見慣れたそれは私自身が持つものであった。400人の中の一人として私が写る高校の卒業アルバム、当時私はそのことを知らずにいたのだが、先年なくなられた山越邦彦の一人娘山越悠子さんは三年間私と同じ時に私と同じ高校に通う人であった。悠子さんの写真もそこにあった。40年以上の歳月を経て私はそのことを知ったのである。

山越邦彦研究会が住宅総合研究財団の助成を受け報告書の作成を行った折、野沢が作成したものであり報告書は会員のそれらをあわせ別途まとめられている。本文は草稿である。