前川國男 現代との対話

■建築を使う知恵が作る都市の楽しさ
最近、私は、木造の建物を設計することが多いのですが、地方には有能な大工が今もいます。彼らと仕事をしていると、応答の快感のようなものを感じることがあります。私たちが描いた図面を彼らが読んだときに、満面の笑みを浮かべて、「お前の考えたことはとても新しい、しかし、俺の考えていることの延長線上にちゃんとあるよ」という顔をしてくれる。それは、嬉しい瞬間です。このような一種挑発し合うような関係は、テクノロジーの世界には本来必ずあるはずと思います。今、そうした関係が連続的にあればよいのですが、必ずしもすべてにあるわけではなくて、出来合いのもので「これを使ってください」という世の中になっている。そうすると、ものとの応答関係が欠落した建築が、都市の表層を競うようにならざるを得ない。
「ドイツポスト」という、超高層ビルなのに外気取り入れの開閉窓をもつ建物を見学したことがあります。その実現をサポートした環境系と構造系のエンジニアにゾーベックとシュラーという卓越したエンジニアがいます。彼らは建築家と同等の提案力をもっている。あるいは、それを作りだすことを支援する社会的仕組みが存在する。そういうことが、実は、責任ある都市や建築を作っていく大きな底力なのだと思います。私の経験でいえば、日本には、今言ったような有能な大工がいます。でも、東京でそういう大工を探そうしても、ほとんど無理ですね。建築がポピュラーになって、一般の人々にも面白がられる状況が大きくなる一方で、建築を支える技術をサポートする人びとが疲れてくると、建築はピエロのようになってしまう。
建築は、一人でできるわけではありません。建築を作り、使っていく多様な知恵が、市民社会の中に、存在するのが都市と言えるのだろう。そうなると、都市は、生き生きしたクオリティの高いサービスを、クオリティの高い人びとが支えながら、その人たちが信頼され、応答がきちんとある、ということになる。それは、建築に限らず、レストランのコックにも、美術館の学芸員にも、図書館の司書にも、あらゆる職業の人に連関するのでしょう。そういう都市を私たちが目指すことが、一番ニコニコしていられる生活環境を作ることにつながるのだと思います。

【松隈】ありがとうございました。都市の豊かさや楽しみ方という意味で考えたときに、どうもこの国はそのことを果たしていない、都市の楽しみ方を知らない。それに対して建築が十分使われていないことをお話されました。前川さんも同じようなことを考えていたのだろうと思います。野沢さんが、神奈川県立図書館・音楽堂の保存運動のころから、このようなことを考えておられたのかということがわかり、大変面白かったです。

■京都の町と京都会館
それに関連して一つ報告したいことがあります。つい先日、多くの方々の協力を得て、前川が設計した「京都会館」の見学会とシンポジウムを催しました。京都会館は、一九六〇年の開館ですから、今年で四十五周年になります。京都市では、五十周年の二〇一〇年に向けて、建物を直していこうという計画があります。そうした動きの中で、この際、全部壊して建て直したほうが良いのではないか、という強硬意見をもつ人がいることを知りました。そこで、京都会館が、京都の町の中でどのような存在で、どんな可能性を持っているのかを、見学会とシンポジウムを通してもう一度確認したかったのです。
京都会館は、都市の中に居心地の良い空間を作り出しているという点で、貴重な建物です。前川さんの建築には、中庭的というか、建物の中に人々が寄り集えるような場所を都市に開かれた状態のまま内包していく方法が、ずっと流れていると思います。

■デビュー作に込められたこと
それから、今度の前川國男建築展で、みなさんに実感として味わってもらえたらいいな、と思っていることがあります。それは、前川國男の一九三五年のデビュー作「森永キャンデーストア銀座売店」の空間です。この建物は、銀座通りに面して、「三愛ドリームセンター」の少しに西側に建っていました。残念ながら、戦災で焼失して今はありません。コンクリート・ブロック造のバラックを改造したささやかな仕事ですが、この建物には、街への提案が試みられています。ショップ・フロントをくの字に引っ込めて、人々がちょっとたたずんだり、雨宿りができるような場所が作られているのです。
現在の「紀伊国屋ビルディング」にもつながるような、街に対して手を広げている建物です。目下、学生が模型を作っている最中ですが、学生本人が模型を作ることによって、私以上にこの建物の良さを感じています。今、建っていても素敵だと思えるたたずまいです。ブロック造の正面外壁を取り払って、鉄骨で補強して全面ガラスとし、中の間仕切りも全部取り払い、吹抜けを二ヶ所作って階段を配置し、奥の方まで視線が抜ける空間構成になっている。鰻の寝床のような敷地ですが、裏の通りから入っても気持ちいいし、中からも通りの様子が感じられる。そういう建物を、前川さんは一番初めに作っていた。

■都市で育まれたもの
これは、私の印象ですが、前川さんは、東京の本郷で育ち、銀座のレーモンド事務所に勤め、独立後もそのすぐ近くに事務所を構えていましたから、都市の楽しさを戦前の銀座でずいぶん享受していたのではないでしょうか。レーモンド事務所から一緒に独立し、前川邸を担当した崎谷小三郎さんのお話では、坂倉準三と仲が良くて、しょっちゅう銀座で飲み歩いていたそうです。前川さんの都市への眼差しを育んだのは、銀座のよき時代の街の風景だったのではないか。おそらく、前川さんの中には、そういう都市へのセンスがあったからこそ、一九六〇年代の丹下さんの東京計画や、メタポリズムの都市への提案とは違う、人々の心のよりどころとなる小さな空間を提案しようとしたのだと思います。

【野沢】日本で戦前の都市文化は、東京や大阪だけに特権的な形であったのでしょうね。近代都市の成熟があってこそ、大正デモクラシーや民主主義が芽生えたのだし、都市の品格みたいなもの、映画を見たり、音楽を聴いたり、食事を楽しんだり、という文化は、ある時期に東京でワッと花開いたのでしょう。その背景として建築が大切であることを、前川さんは、戦前のヨーロッパに行って、確認しているわけですからね。人一倍そういうことに関しては敏感だったはずです。ダンディでおしゃれで、車も好きだったし。
日本の悲しさは、そうした都市文化が一旦壊れることですよ。その後に空白が来るわけですから、私たちには想像しにくいですが、そういう茫然自失の厳しい時代の中に、私たちの先輩たちはいた。さらに言えば、戦争が大きな負荷になって、戦後、長い時間をかけなければ何一つ片がつかない。「いっそのこと壊してしまおう」という発想も、それと関係があるのかもしれない。「もう少し知恵がないのか」とみんなで言いながらも、その知恵を社会的コンセンサスにできないことが、私たちの時代の大きな問題だと思います。

【松隈】前川さんは、関東大震災と第二次世界大戦による、二度の都市の壊滅的な被害を目撃した建築家です。そこから、建築には何ができて、建築家は何をしなければいけないのか、という問いを受け止めようとした。さらに、「プレモス」によって新しい共同体がどのようにしたらできるのかを一生懸命考えていた。大高さんも、そのバトンを受け継いで、「多摩ニュータウン」に取り組んだ。そう考えると、技術や制度が貧しくて整備できていない時代の方が、建築家は、遠いところに問いを投げてヴィジョンを描けていた。
むしろ、技術が成熟してそういうことが可能になったときに、遠くへ球を投げる力や努力が失われてくる。林昌二さんが面白いことを言っていて、「一九七〇年代に入るまでは建築家は一生懸命建築を作っていたが、それ以降、建築家は歴史を持っていない」と。「これから本当の近代建築や街づくりができる時代になったはずなのに、なぜそれがうまくできないのか」と話されていたのが印象的でした。人間ってなかなか難しいものですね。

【野沢】前川さんには、「私がやらなくては」という覚悟があったのだと思う。今は、その覚悟を持つこと自体が難しい。つまり、たくさんの人が同じようなことをやっている中で、自分が担わなくてはいけない、と一人で聳え立っているのはヘンなやつになりますからね(笑)。だけど、現代においても、私たちの時代なりのクオリティをきちんと議論しながら作っていく方法があるはずだと思います。それは、前川さんのような、数少ない味方たちとの応答によって、選良としてものを作っていくのとは違う形です。前川さんの生きた戦後は、けっして恵まれた時代ではなかった。だからこそ、選ばれた人間が使命感をもって引き受けようとしたのだと思う。しかし、本来なら、たくさんの応答が可能な現代のような状況の中で、クオリティの高いものができていく方が良いのかもしれない。むずかしいことですが、それが求められていると思いますね。

■東京海上ビルの意味
【松隈】今日は、都市がテーマですが、会場には、奥平耕造さんが来ておられます。奥平さんは「東京海上火災本社ビル」の設計を担当されました。現在、東京駅周辺の再開発が進み、東京海上ビルが急速に小さく見えるようになりつつあります。そうした状況の変化もあって、たかだか数十年前のことなのに、この建物で問われたことの意味が伝わらなくなっている印象も強い。そこで、ぜひ、東京海上ビルについてお聞きしたいのです。

【奥平】じつは、「東京海上火災本社ビル」が、日本で最初の超高層ビルになるはずでした。ところが、結果としては、東京海上の次に始まった「霞ヶ関ビル」の方が、そのままの形で先にできるのです。霞ヶ関ビルの皇居側に行ってごらんなさい。皇居を見下ろすのがけしからん、ということで、窓は全部塞いでありますよ。東京海上ビルからの皇居に対する視線と霞ヶ関ビルからの視線とを比べると、霞ヶ関ビルの方が急なんです。しかし、確認申請を出したら、東京都が許可してくれない。なぜかというと、私に言わせれば、国家権力の理不尽な暴力です。当時、東京都首都圏整備局長に山田正夫さんという土木出身の官僚がいた。この人がいけない。美観論争なるものを仕掛けるわけです。正規の手続きを踏んで建築審査会で審査してもらい、東京海上の建設計画は良いとのお墨付きを得たにもかかわらず、当時の総理大臣の佐藤栄作が出てきて、皇居を見下ろすようなビルはけしからん、と言いはじめた。それで、東京海上は塩漬けになるわけです。都市整備局長と総理大臣が結託すると、何でもできてしまう、あれは完全な暴力だったと私は思います。
それで、ようやく建物は二十階の高さで頭を切られて完成したのですが、そのことを、宮内嘉久さんは、「賊軍の将」と書いた。私に言わせると、野沢さんと同じ意見で、前川さんは近代建築のオーソドックスをやっている。賊軍なんかではない。前川さんが「賊軍の将」だとすると、私は「賊軍の兵」になる(笑)。私は「賊軍の兵」として生きてきたのではありません。近代建築の闘将の下で有能な兵でありたいと思い続けてきました。

■モダニズムの遺産
【野沢】建築というのはずっと残っていますので、音楽堂などを見に行きますと、その時代の持っていた力が、そのままそこに在る。もちろん修繕されていても、どういう継続的な応答をしながら直されているかを見れば、積み重なった時間が豊かさを教えてくれることがあると思うのです。
建築家は、建築の設計の努力をするのはもちろんですが、建築を見ること、建築を考えることで、大きく力をつけられるはずだと思います。過去の建築なり、新しいものも含めて、きちんと造られたものをきちんと見て、考えていくことが自分の仕事に役に立つ。一方で、慌ただしい時代の建築家は、自分の仕事以外にあまり見る時間や考える時間が無い。そうした状況が、過去の日本の戦後にはあった。そのことによって作られた不幸な建築はたくさんあるのだろうと思います。そういう建築が残らないことも、ある意味では仕方ないことかもしれません。その傾向が、残すべき建物さえも無造作に壊してしまうことにもつながっている。そこが、私たちの社会の抱えるややこしさです。
だからこそ、きちんと鑑賞して、きちんと味わって、面白いと思う、なるほどと思うことを続けていくことが大切ではないか。それは、今、私たちの考える「サスティナブルデザイン」=持続可能なデザインにもどこかでつながっていると思います。戦後すぐの近代建築は、資源使用量が極めて少ないですね。今の贅沢な建物に比べると、「神奈川県立図書館・音楽堂」などは非常に少ない資源によって、最大の効果をあげようとして設計をしている。モダニズムは、どこかでそのようなもの、合理主義をもっていると思います。今言われている、最小のエネルギー投入量で最大のクオリティを、というモダニズムの努力は、今の環境共生型の建築の一つのルーツと考えてよい、大切な遺産だと思います。
そういう意味で、前川さんの努力、テクニカル・アプローチの考え方も、今の建築の考えと太くつながるものを持っていると思います。戦前も含めて、日本の戦後の近代建築を、そういう風に説明してみたいし、みんなで面白いと思いたいですね。それが、建築が、もう一度、都市の中で日々使われ、人々によってもう一度愛着を獲得して、豊かな市民サービスの場になっていくことにもつながる。その可能性は、僕らの知恵によって、十分実現可能なのだと思います。

【松隈】タイルの一枚、サッシュのディテール一つが、都市の豊かさを作るためにある。だからこそ、そのことを追求して、最小限のものが最大限の空間を生む努力していた。そこに、前川さんが、都市を見ていた視線の原点があるのではないか。そして、そのことを、僕らがどう受け継いで、都市の現実に何を働きかけていくのか、という地点に、今、立っているのだと思いました。今日は、都市を通して広がりのあるお話をしていただきました。ありがとうございました。